鞆軽便鉄道の歴史
| 鞆軽便鉄道の歴史は 私たちの歴史です |
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わたしたちトモテツグループの 原点となる記録です History |
T.背景
トモテツグループの歴史は、鞆鉄道(株)の創業にさかのぼります。
時は明治。明治維新後、明治政府は世界の発展から大きく取り残されているわが国の近代化を進めるため、産業振興政策を大きな柱としました。その一つとして国営又は私営による全国的な鉄道網の建設に力を注ぎました。明治21年には神戸・下関間の私設・山陽鉄道(現JR山陽本線)が着工され、同24年11月には福山駅が開通。この地方の交通運輸に一大変革がもたされました。
鞆港(ともこう)は福山市中心部より南へ14kmほどの場所に位置し、万葉の昔より瀬戸内海航路の要港として栄え、福山の海の玄関といわれていました。しかし鞆-福山間の陸上交通は徒歩か荷車に頼るだけの不便さでした。
そこで福山駅と鞆港の陸海の要衝を鉄道で結び、特に鞆港を全国的な鉄道に接続させ、物資集散機能の充実、地場産業と観光事業の発展、住民の足の確保を図ろうとする気運が高まりました。
「何とかして鞆-福山間に汽車を走らせたい・・・」
この願いは次第に大きくなってゆきました。
鞆港(ともこう)は福山市中心部より南へ14kmほどの場所に位置し、万葉の昔より瀬戸内海航路の要港として栄え、福山の海の玄関といわれていました。しかし鞆-福山間の陸上交通は徒歩か荷車に頼るだけの不便さでした。
そこで福山駅と鞆港の陸海の要衝を鉄道で結び、特に鞆港を全国的な鉄道に接続させ、物資集散機能の充実、地場産業と観光事業の発展、住民の足の確保を図ろうとする気運が高まりました。
「何とかして鞆-福山間に汽車を走らせたい・・・」
この願いは次第に大きくなってゆきました。
U.創業
人々の願いを受け、鉄道敷設は困難を乗り越えながらも実現しました。
![]() 私設鉄道免許証 明治 43 年 9 月 5 日 鞆軽便鉄道株式会社発起人 井上角五郎 内閣総理大臣 桂 太郎 |
明治 29年 |
1896 | 日本政府より鉄道施設仮免許を受けるが日清日露戦争の時期にあたり、2度にわたって着工を試みるが断念 |
| 明治 42年 |
1909 | 6月鞆町民有志で、「鞆交通機関期成同盟会」を結成 | |
| 10月「鞆軌道株式会社創立事務所」設立 |
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| 明治 43年 |
1910 | 鉄道院(現在の運輸省)へ私設鉄道の免許願書を提出 11月18日「鞆軽便鉄道株式会社」(現在の鞆鉄道)創立 資本金20万円。初代社長に林半助を選び、実に20年に及ぶ悲願の達成でした。 路線は鞆-福山間12.5km、762mmナロウゲージのレールに小型SLを走らせる計画でスタートしました。 |
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| 明治 44年 |
1911 | 工事着工。 途中地価の高騰などで16万円を起債し、総額36万余円で完成を見ました。 |
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![]() 福山城を背景に |
大正 2年 |
1913 | 11月17日開通式(鞆〜野上町間) 運賃は大人の片道20銭。最初の機関車は国産・雨宮製サルタンク機関車(1号・2号)と、
ドイツ・エンケンタールのアルノルド・ユンク社製タンク機関車(3・4号)を運行。 |
| 大正 3年 |
1914 | 4月 野上町〜福山町(現在の三之丸)開通 「三分坂」の思い出 現在の福山市田尻町にある三分坂は匂配のきつい上り坂。馬力の少ない鞆鉄道の機関車は坂を登るのにひと苦労でした。そこで満員のときは何十人かの乗客が汽車を降り、坂の上まで歩いて登っていました。現代では考えられないこの光景、鞆鉄道の懐かしい歴史のひとこまです。 |
V.成長期
経営面では開業後数年は赤字続きでしたが、その後曲折を経ながらも好調に推移し、太平洋戦争中も乗客は順調に増えてゆきました。
![]() ◆アルノルド・ユンク社製の機関車◆ |
大正10年 | 1921 | 軽便鉄道が廃止され、地方鉄道法が施行 |
| 大正 15年 |
1926 | 12月19日社名を現在の「鞆鉄道株式会社」に変更 この頃から昭和10年代にかけて乗合自動車が全国的に普及。
福山−鞆の間にも2業者がバスを運行して激しく競合 |
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| 昭和 2年 |
1927 | 乗合自動車の営業免許を受け、鞆町内の運行開始 | |
| 昭和 6年 |
1931 | 4月自社鉄道と並行して鞆-福山間にバス運行開始 9月現在のJR福山駅に乗り入れ |
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| 昭和 10年 |
1935 | 鞆-福山間の競合バス2社の営業路線権を買収 鉄道とバス路線を単独の経営として事業の安定をはかる |
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| 昭和 17年 |
1942 | 乗客数が年間100万人を超える | |
| 昭和 20年 |
1945 | 福山大空襲第2次世界大戦終戦 | |
| 昭和 22年 |
1947 | 開通以来最高の174万人を記録 |
| 鞆軽便鉄道の機関車両も時代ごとにその顔ぶれを変えて行きました。 雨宮製サドルタンク機関車は牽引力不足で後年売却され、変わってドイツ・コッペル社製(5号)や、さらに馬力の強い国産機関車が導入されました。開通当初から運行していたアルノルド・ユンク製の機関車は上のほうが膨らんだラッキョのような形の煙突を持ち、「ラッキョ汽車」の愛称で親しまれ鞆経便鉄道の代名詞になりました。 |
W.蒸気機関車からバスへ
終戦後日本は、猛烈なインフレーションに襲われ、
燃料費、車両、線路の維持、修繕費、人件費などの高騰によって経営は徐々に悪化して行きました。
鞆-福山間の乗客の足も、小回りがきいて乗降の便の良いバスへと移って行きました。
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昭和 28年 |
1953 | 11月21日株主総会で鉄道の廃止が決議 |
| 昭和 29年 |
1954 | 2月28日営業運転廃止 好調のバス専業の道へと転換 3月28日お名残列車運行 尽きせぬ名残の中で、「ラッキョ汽車」は 波瀾に富んだ41年の歴史に幕を閉じました。 |
| 鞆軽鉄道が41年間の間に運んだ乗客は、23,461,252人と記録されています。 鉄道レール跡地は林公三郎社長の時、昭和32年を中心に鞆・福山間の県道に隣接した大部分、 広島県へ無償で寄付をしております。 |
「ラッキョ汽車」復元
人々に愛されたラッキョ汽車は今も多くの人の心に残ります。
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おかえり「ラッキョ汽車」 〜鞆軽便鉄道1/4ミニチュア模型に復元〜 平成元年に開催された「海と島の博覧会」 鞆の浦会場に、ラッキョ汽車が もどってきました。 お客様をのせて特設場内を 運行、大人から子供まで みんな大喜びの様子でした。 |
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懐かしいラッキョ汽車に 感慨もひとしおでした。 期間中26,518人もの方に ご乗車いただきました。 |
X.バス事業から多角化、トモテツグループ形成へ
地域密着をキーワードに地域社会のニーズ、地域に高付加価値を与える商品、サービスを提供するため、日々チャレンジ精神と変化を恐れない姿勢で活動しています。
現在11社となったトモテツグループはこれからも地域の皆さまと共に歩んで行きます。









